警察官による人権侵害は、あらゆる国で問題視され、国際問題にまで発展することすらある。だが年号が平成に替わった頃は、逮捕された外国人犯罪者の中には、罪を犯して被疑者となった自分に人権が保障されているということを理解できない者がいたという。
日本人にしろ外国人にしろ、取り調べや留置にあたり認められている権利がある。“黙秘権”と呼ばれる供述拒否権や“弁護人選任権”だ。人権の1つとして保障される黙秘権は、言いたくないことは言わなくていい権利、自分に不利益な供述を拒否する権利である。弁護人選任権は、被疑者が弁護士に依頼して、弁護を受けることができる権利だ。
続きを読む被疑者の人権
人権について何も知らない外国人被疑者に、権利としての内容を伝え、理解させるのは難しい。特に黙秘権を伝える時、伝え方1つでその後の取り調べが左右されることになるらしい。外国人被疑者を数多く取り調べてきた元刑事A氏は、「ほんの一呼吸だけの差が、外国人被疑者を黙秘させることになる」と語る。
それは、当時の中国やフィリピン出身の犯罪者に見られたという。
「中国では一党独裁体制の中で育ち、逮捕されれば白状するまで水も飲ませてもらえないなどということがあったと聞く。フィリピンの警察も尋問が厳しく、2014年には、ある拘置所の警察官たちがルーレットで拷問方法を決めていたことが明らかになり、問題になったぐらいだ。どちらの国も警察機関が強権だったのが特徴。被疑者の権利など無きに等しかったのだろう」(同前)
そのような国からきた者に黙秘権を伝えると、意味がわからず一瞬、目を丸くするが、その後の反応はまちまちだったようだ。
取り調べに慣れた刑事が気をつけていた「一呼吸」
外国人犯罪の取り調べには、当然のことながら語学が必要になる。A氏もいくつかの外国語を操るが、対応できる言語は限られている。外国人犯罪の捜査に携わるすべての刑事が語学に堪能なわけでも、何らかの語学ができるわけではない。
例えば、警視庁組織犯罪対策部では、刑事たちが所属する課の中で、情報班や科学班、事件班など専門によっていくつかの班に分かれている。事件班は、事件現場の捜査などを専門に行うため、現場での高い捜査能力を必要とするが、外国人とのコミュニケーションを頻繁に行う情報班ほど語学能力を必要としない。
事件ごとに取調べを担当する刑事は取調べ官、通称“調べ官”と呼ばれる。調べ官が自分の口から、自分の言葉で取り調べを行えればいいが、必要とされる言語ができなければ通訳人が必要になる。通訳人には、捜査権を持たない内部の通訳職の通訳官もいれば、民間の通訳人もいる。通訳人に頼むだけでなく、A氏を始め、取り調べに慣れた刑事が気をつけていたのがこの一呼吸だ。
調べ官への対し方を決めさせる“間”
「通訳人が『黙秘権という権利があなたにはある。これは言いたくないことは言わなくていい権利、無理に話さなくてもいい権利です』と言い、ここで一呼吸おいたとする。人間の心理として、ここで一呼吸おくことで、相手に頷く間を与えたいのだろう。
ところが、そこで言葉が切れると、『黙秘してもいい』という言葉が強く印象に残り、被疑者は『これはいいことを聞いた』『ラッキーだ』と思い、だんまりを決め込むようになってしまう」(A氏)
ほんの一呼吸は、黙秘権を伝える時に人が作りやすい間のようだ。被疑者は、その後は何も言わなくなり、捜査に非協力的になるという。
こういう事態を避けるのに必要なのは、実に簡単なことだった。
「黙秘する権利があると伝えてすぐに『だが、やってしまったことだから、真実を言いなさい』と通訳人に伝えてもらうこと。ただそれだけだ。言葉からくる印象は、このわずかな間で変わってしまう。外国人被疑者の取り調べでは、この“間”が重要な意味を持つ。たたみかけることで被疑者は、黙秘より話した方が自分のためだと感じ、調べ官に真剣に向き合うようになる」(同前)
たった一呼吸の差が調べ官への対し方を決めさせるのだ。
特殊外国語を通訳できる者は数名のみ
一呼吸を置いてしまうことで、たとえ供述を始めても二転三転し、真実が見えなくなる。
「中国なら黙秘するかいい加減な供述をすれば、取り調べがさらに厳しくなるが、日本では黙秘権を行使しても制裁は受けない。中国では日本のような精密な捜査はせず、お前がやったんだろう、お前が犯人だろうという推測で裁判が進行するところもある。そのため被疑者は、やっていないと強く主張すれば、なんとかなると考えて否認を続ける」とA氏は彼らの心理を説明する。
取り調べでは、被疑者に弁護人選任権も伝えなければならない。フィリピン人被疑者には、この権利を理解させるのが難しかったと元刑事B氏は話す。島々が点在するフィリピンでは、その地域独特の少数民族の言語が存在する。日本でこうした特殊外国語を通訳できる者は、どの言語でも数名しかいない。
通訳人が日本の司法制度を細かく説明
ある日、フィリピンの小さな島の出身者が日本で逮捕された。特殊外国語を話す部族の出身だ。呼ばれてきた通訳人は、被疑者と同じ島の出身で同じ部族。遠い親戚かもしれなかった。そのためなのか、日本という他国で起こした犯行に対して、悪いことは悪いと罪を認めて償いをさせたいという気持ちが通訳人には強かったらしい。
フィリピンの場合も、一部の者には人権に関する認識が低い。この被疑者もそうだった。弁護人選任権を伝えても、自分が悪いことをしたのに、日本国が弁護士をつけてくれるということが理解できなかった。自分は何か罠に嵌められるのではないか、そのまま死刑にされるのではないかと疑ったのだ。そんな被疑者に通訳人は諄々と説得した。
「国(フィリピン)と違って、日本では犯罪をやったからといって、いきなり首をちょんとはねられることはない。弁護士もつけることができるし、自分でつける費用がないなら、国がつけてくれる。弁護士はあなたが正直に白状すれば、裁判でも味方になってくれる。日本は民主主義国家だから、罪人の人権も守ろうとする。裁判で判決が出て、あなたが刑務所に入っても死刑になることはない。安心しなさい。やったのならやったと、本当のことを話しなさい」(B氏)
同じ部族の者が母語でそう話せば、被疑者も安心するという。通訳人はフィリピンの司法制度と日本の司法制度の違いを細かく説明した。この権利を上手く理解させないと、取り調べがうまく進まなくなる。被疑者も通訳人を信用しなくなり口を閉ざしてしまう。
取り調べは心理戦
「同じ部族だから文化も習慣も同じ。現地の事情もわかっている。相手の心の微妙な動きも読める。被疑者が自分を正当化しようと嘘を言うと、『あなたが言っていることは矛盾している。おかしい。きちんと説明しなさい』と、がんがん攻めて、供述を引き出した」と語るB氏は、「優秀な通訳人は、調べ官の言葉を正確に伝えるだけでなく、間や相槌なども表現し感情が伝わるよう通訳してくれる」という。
「例えば『こいつ、さっきこう言ったよな。何だ、このヤロー嘘ばかりついているな』と調べ官が怒れば、通訳人は机をバンバン叩いてでも、調べ官の意や感情を伝える。すると不思議なもので、被疑者の方から『あの通訳を呼んでくれ。あの人なら自分の真意が伝わるから』ということが起こる」(同前)
被疑者に通訳人は自分の味方だと思い込ませることができるのだ。
調べ官の言い方1つ、通訳人の訳し方1つで、被疑者の心のあり様が変わり、取り調べの内容が変わる経験を何度もしてきたというA氏。
取り調べは相手の心を見ながら行わなければならないのと同様、被疑者も調べ官や通訳人を見ているのだと語る。取り調べは心理戦なのだ。
引用元 https://bunshun.jp/articles/photo/54748
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