【無国籍でも私は私】「NPO法人無国籍ネットワーク」発起人/早稲田大学国際学術院教授・陳天璽(チン・テンジ)

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AERAによると…

無国籍でも私は私 「NPO法人無国籍ネットワーク」発起人/早稲田大学国際学術院教授・陳天璽

NPO法人無国籍ネットワーク」発起人、早稲田大学国際学術院教授・陳天璽。国籍を持たない「無国籍者」が世界に400万~500万人いると言われている。陳天璽もまた、30年ほど無国籍者として日本に暮らした。そこで直面した困難は、自分とは、国とは何かを強く考えさせた。国籍がないことで受ける制約は多い。でも、国籍がなくても、どこの国籍であろうと、私は私。人こそが一番大事にされるべきだ。

教室は200人の学生で満員となった。この春、東京理科大学(東京都葛飾区の葛飾キャンパス)に入学したばかりの新入生向け「教養概論」。

(略)

この日のテーマタイトルは「(無)国籍(と私)」。陳は、文化人類学者として国連が本腰を入れて取り組みを始める前から無国籍の実情を調べ、論文や著作を発表してきた。これまで35カ国以上の国や地域で無国籍の人たちの聞き取りを行っている。2024年末には、いくつもの国籍をもつ多重国籍者の家族の調査のため、スペインに出かけた。

 無国籍の人たちを支援する団体「NPO法人無国籍ネットワーク」をいち早く立ち上げるなど、現実の問題にもコミットする先駆者だ。国籍の問題を深く研究するのは、陳自身、約30年間「無国籍者」の時期があり、さまざまな壁に阻まれたり、跳ね返されたりしてきたからだ。

「無国籍というと、何か悪いことのように思われたりする。けれど全く違う。同じ立場に置かれる可能性は誰にでもあるんです」(陳)

[全文は引用元へ…]

以下,Xより

TAKASEさんの投稿】

引用元 https://dot.asahi.com/articles/-/257051?page=1

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みんなのコメント

  • 無国籍であることを美化しないでほしい
  • 日本の制度に乗っかって活動してる時点で矛盾してる
  • こういう人が教育の場にいるのが信じられない
  • 普通に考えて怪しすぎる
  • 国籍ってそんな軽いもんじゃない
  • 日本の大学でこんな思想広めてるのが恐ろしい
  • 支援の名を借りた政治活動じゃないの?
  • 国に属するって責任があるはずだよね
  • なんでこういう人が教授になれるの?
  • 胡散臭さがすごい
  • 無国籍が当たり前みたいな空気やめてくれ
  • 正直、警戒心しかない
  • 無国籍ネットワークって響きからして怖い
  • 日本人の税金でやるなって話
  • 国籍がないのに日本の社会に口出すのは変
  • 違和感あるけど誰も突っ込まないのが怖い
  • 大学ってもっと中立であるべきでしょ
  • 思想の押し付けがすごいんだよな
  • 多様性って言えばなんでも通ると思ってる
  • こんなのが教育の現場にいるの異常

japannewsnavi編集部Aの見解

無国籍者問題が問いかける「国」と「個」の境界線

最近、大学での講演や新聞記事などを通じて「無国籍者」に関する話題を目にする機会が増えました。特に、NPO法人「無国籍ネットワーク」発起人であり、早稲田大学教授でもある陳天璽氏の活動は、日本におけるこの問題の第一人者として注目されています。

記事によれば、氏は自身も30年にわたり無国籍という立場で日本社会に身を置いてきた経験があり、その視点から国籍を持たない人々の苦悩や課題について発信を続けているとのこと。大学の講義には200人以上の学生が参加し、「国とは何か」「自分とは何か」といった本質的な問いを投げかける内容だったそうです。

たしかに、無国籍状態に置かれた人たちが直面する制約は厳しいものがあります。教育、就労、医療など、私たちが当たり前のように享受している権利が、法的な“存在証明”を持たないというだけで著しく制限される。この現実を知ることは、人としての共感や社会全体の成熟にとって必要不可欠だと感じます。

しかし一方で、私は「国籍の曖昧化」が進むことで、日本という国の基盤そのものが揺らいでしまわないかという懸念を抱かずにはいられません。

「人道」と「国家主権」の間にある緊張

人権や人道という言葉は非常に大切な価値観ですが、それと同時に忘れてはならないのが「国家主権」です。どの国にも、それぞれの歴史と法制度、文化と秩序があり、それを守ることは単なる「国益」以上に、その国に住む人々の安全や安定と直結しています。

無国籍の人々を無条件に支援すべき、という一方的な考え方に偏りすぎると、次第に「国境」や「国民の権利」という線引きが曖昧になってしまう恐れがあります。とくに、無国籍であることが制度的・意図的に選ばれた場合や、あえて自国に帰属しないことで便宜を得ようとするケースが含まれている可能性も否定できません。

多くの国が帰化や国籍取得に際し、忠誠や義務を条件としているのも、この「国家と個人の関係性」を明確にするためです。日本がそれに対して寛容すぎる制度や姿勢を続けてしまえば、長期的に見て国内の制度疲労や国民感情の分断を引き起こすことになるでしょう。

もちろん、困っている人に手を差し伸べることは人として当然の姿勢です。しかしそれは、制度の維持と秩序の確保という「骨組み」のうえでこそ成り立つのだと思います。

多文化共生を掲げる前に必要な「共有の原則」

グローバル化が進む中で、多重国籍や無国籍といった問題が浮上するのは避けられない現実です。しかし、その対応において「共生」や「多様性」という言葉だけが先行してしまうと、結果として社会の一体感や責任感が失われてしまう危険性があります。

陳氏は「私は私」と語りますが、国家という枠組みのなかで暮らす以上、私たちには「公」の一員として果たすべき義務もあるはずです。それは納税であり、教育であり、時には国を守る意志を持つことも含まれます。そのような「共有の原則」が曖昧になった状態で「あなたはあなた」と認め合うだけでは、結局のところ無責任な自由主義に陥ってしまいかねません。

私は、無国籍者や多国籍者に対する理解を深めることと同時に、「国に属するとはどういうことか」を若い世代と共に考えていく必要があると強く思います。一人の人間としての尊厳は大切にしながらも、国家という枠組みを軽視しない視座が求められているのではないでしょうか。

私たちが守るべきは、情緒的な理想論ではなく、現実の社会の中で機能する制度と秩序であり、それを支えているのが国家主権であるという事実を、改めて意識するべき時期に来ているのだと感じます。

執筆:編集部A

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