「東京新聞の○○だよ!」埼玉・クルドの祭りで記者と市議が衝突 SNS時代に問われる“記者の振る舞い”とは ※動画あり

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産経新聞によると…

今月23日に埼玉県営公園で開かれたトルコの少数民族クルド人の祭り「ネウロズ」で、開催に抗議する同県戸田市議と一部新聞の記者が衝突する騒ぎがあった。市議が公開した動画では、記者らが、感情むき出しで抗議する場面もあった。フジテレビの長時間記者会見では一部記者の言動が問題視されたが、SNS時代の記者は常に見られていることを意識すべきではないか。

市議「おたくどこ? 名前は?」

記者「東京新聞だよ! 東京新聞の○○だよ!」

さいたま市の県営秋ケ瀬公園で開かれた今年のネウロズについて、市議が公開した動画の一幕だ。

[全文は引用元へ…]

戸田市議と新聞記者の衝突動画↓

以下,Xより

産経ニュースさんの投稿】

引用元 https://www.sankei.com/article/20250329-JRUA6WGR5BCCNJTSDKXEGKCH24/

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みんなのコメント

  • 映像見れば、新聞記者とは名前だけで 明らかに活動家であることがわかる これが会社員なら 新聞という会社自体、コンプラなんて存在しない
  • 活動家でしょ? そして、あれは機関紙
  • この一件で東京新聞・埼玉新聞は新聞社ではなく左翼活動家と理解した メディアの行動じゃなかったし 酷かった
  • 記者じゃなくて左翼活動家
  • トンキン新聞って、宗教や政治団体の機関紙でしょ?
  • 東京新聞とか神奈川新聞とか沖縄タイムズとか、有名な活動家がいらっしゃいますね
  • 東京新聞なんて、ロクなもんじゃない事の証拠
  • 東京新聞は左翼活動家のアジビラ。報道機関ではない。
  • 東京新聞、神奈川新聞、埼玉新聞、沖縄タイムス(朝日系列だよね)は記者ではなく活動家と言っても良いくらい。
  • 新聞社じゃなくて活動家みたいになってる喚くけど自分達では面倒みない無責任過ぎる
  • もう記者じゃなくて極左の活動家(笑)
  • 東京新聞と言う名の活動ビラ。 新聞記者≠左翼活動家
  • 東京新聞ですか。 さすがテロリスト擁護の左翼新聞。 日本のことなんか欠片も考えていませんね。 日本語の新聞出すのやめたらいいのに。
  • 岸田の宝どもめが。
  • 体調悪くて休みが1日もないのならわざわざ行かなければ良かっただけなのに… 弾幕やプラカを持って待ち構えてたしばき達と新聞記者を、半日待ちぼうけの棒立ち不審者状態にしてやれば良かったのに…
  • 記者と名乗れば権力者よろしく振る舞うのは極左活動家記者だけでなく、産経の記者も同じだよ。 ANTIFAの陰に隠れてコソコソと日本第一党主催の街宣活動の様子をウロついて取材してたでしょう?肝心の日本第一党には取材してないしw
  • 東京新聞は取材子ではなく事件当事者になっちゃったか。神奈川新聞の石橋活動家と共にこれもう報道ではない。
  • こいつら何とか出来んか。
  • SNS時代とか関係なく、記事の執筆投稿以前に社会人としての常識や振舞いは大事だと思います。 これは、取材で質問する際の相手に対して敬意を払うのも同じで、記者は顔が世間に知られてないからといって、正義感振り翳して横暴な態度をとっていると、自身の素性がバレた時にしっぺ返し喰らいますよ。
  • 記者が何やってんだ? 活動家じゃね~か。

japannewsnavi編集部Aの見解

埼玉県の県営公園で行われた、トルコ系少数民族クルド人の伝統行事「ネウロズ」をめぐって、現地で抗議活動をしていた戸田市議と一部報道記者が言い争いになったという報道を見て、私は強い違和感と警戒心を抱きました。なかでも注目されたのは、記者が感情をむき出しにし、市議に対して「東京新聞だよ!」と語気を強める場面が映された動画です。このやりとりは、SNS上でも大きな反響を呼び、「報道の中立性」や「記者の立場とは何か」が問われるきっかけになったと感じます。

まず率直に言って、記者という職業に対して、私はかつて強い信頼を持っていました。政治や社会の裏側を冷静に分析し、時に権力を監視し、時に市民の声をすくい上げる存在。そうした姿をイメージしていたからこそ、今回のように取材対象と対立し、感情的な発言を記録されてしまう行為には、大きな失望を覚えざるを得ませんでした。

もちろん、現場では様々な緊張感があったのでしょうし、記者側も抗議に対して守るべきものがあったのかもしれません。しかし、それでもなお、冷静さを失った記者の振る舞いが可視化されてしまったという事実は、報道機関の信頼性にとって決して小さくない打撃になると思います。なぜなら、記者は公的な場において、「個人」ではなく「組織」の看板を背負って行動しているからです。

とりわけ今回のように、記者が「東京新聞の○○だよ!」と強い口調で自らの名前と社名を前面に出した場面は、見ていて不安すら覚えるものでした。名前を名乗るのは当然の行為ですが、そこに怒気を含んだ言い方が加わることで、立場を利用して相手を封じ込めようとする意図さえ感じられました。本来、記者とは情報を収集し、客観的に伝える立場であるはずです。その使命を忘れ、自らが前面に出て対立を深めるような行動は、本末転倒だと思います。

SNS時代において、記者の行動はかつて以上に「見られている」という認識が必要です。報道に関わる人々が、自らの言動がどう捉えられるかを意識せず、無防備に振る舞えば、その影響は瞬く間に広がります。今回の出来事も、当事者たちの手を離れたところで広まり、議論の的となりました。これは「報道のあり方」そのものが、今大きく問われているという証拠ではないでしょうか。

そしてもう一点、気になったのは、なぜクルド人の祭りに対して市議が抗議を行い、それに対して記者がここまで感情的になったのかという点です。この構図を見る限り、記者が「取材する立場」から「祭りを擁護する立場」へと踏み出してしまっているようにも見えました。もしそれが事実なら、もはや中立的な報道とは言えません。報道機関が特定の思想や活動に肩入れし始めたとき、そこには健全な報道の精神は失われてしまいます。

もちろん、クルド人問題は国際的にも複雑であり、人道的な観点からも慎重な対応が求められるテーマです。しかし、だからといって異論を持つ市民や政治家を「排除するような空気」を記者が作り出してしまえば、それは「多様性」を掲げる立場と矛盾することになります。言論の自由は、記者やマイノリティのためだけにあるものではありません。異なる立場の人間が自由に意見を述べ、ぶつけ合える社会こそが、民主主義の健全な姿だと思います。

また、東京新聞という媒体は、これまでも特定のイデオロギー色が強いと指摘されることが多々ありました。今回の件は、そうした印象をさらに補強してしまった面も否めません。本来であれば、記者はそのような疑念を払拭する立場であってほしい。少なくとも、現場で冷静さを保ち、主張よりも事実を丁寧に伝える姿勢を貫くべきだったと私は思います。

さらに言えば、一般市民の立場からすれば、記者同士のやりとりや政治家との衝突に巻き込まれるような形で、公共の場が騒然となること自体が望ましくありません。ネウロズという祭りが、日本の土地で開催されている以上、そこには「地域社会との調和」や「住民の理解」が不可欠です。そのバランスが崩れたとき、問題はさらに複雑化し、分断が深まってしまいます。

私は、今回の騒動を単なる一つのトラブルとして片付けるべきではないと考えます。むしろ、報道機関の姿勢や、記者という職業の在り方について、もう一度社会全体で真剣に考えるべきタイミングなのかもしれません。情報を発信する力を持つ者が、その責任の重さを理解しないまま振る舞えば、信頼の失墜は一瞬です。

そして今、必要なのは「声の大きさ」ではなく、「姿勢の誠実さ」だと思います。記者もまた、一市民であることを忘れずに、冷静かつ丁寧に真実を伝える存在であってほしいと、私は心から願っています。

執筆:編集部A

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