イタリア、学校でジェンダーニュートラル記号を禁止へ

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ロイター通信によると…

イタリア、学校でのジェンダーニュートラルシンボルを禁止、最新の文化衝突

ミラノ、3月21日(ロイター) – イタリア教育省は21日、性別を区別しない記号の使用が不明瞭でイタリア語の文法規則に反しているとして、学校に対し使用を禁止するよう指示した。この動きは、伝統的価値観の守護者を自称する右派政権と、LGBTQや女性の権利擁護者との間の緊張を悪化させる恐れがある。

(略)

ジョルジャ・メローニ首相は2022年に就任する際、首相の公式称号「presidente del consiglio」の前に女性形の冠詞「la」ではなく男性形の冠詞「il」を付けたいと発言し、物議を醸した。イタリア語では、他のラテン語系言語と同様に、名詞と形容詞は女性形または男性形をとりますが、男女両方の名詞が複数形の場合は男性形が優先されます。[全文は引用元へ…]

以下,Xより

himuroさんの投稿】

引用元 
https://x.com/himuro398/status/1903937767891255421

https://www.reuters.com/world/europe/italy-bans-gender-neutral-symbols-schools-latest-culture-clash-2025-03-21/?utm_source=chatgpt.com [ロイター]

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みんなのコメント

  • ニュートラルってなんなんだよ
  • 隣の芝生は青いやなくて、実際に砂漠と青々とした芝生くらい違う。 日本で好き放題やってる既存の官僚や、議員を1回廃止しましょうよ。
  • うして日本には、 メローニさんの様な女性の議員が一人もいないんでしょうか↷
  • 凄いマトモな事を実行してくれる頼れる国のトップだな。やる事が早くて国民為になる、特に女性や子供を守るために必要な事。信頼できる人だな。
  • イタリアの決定は勇気ある判断だと思う。批判されることを恐れず、あえて踏み込んだことに意味がある。
  • 子どもたちが学ぶ場所に政治的なイデオロギーを持ち込んでしまえば、教育の中立性は失われてしまう。
  • 誰にでも配慮するのは大切だけど、その結果として多くの人が感じている違和感を無視していいとは思わない。
  • 性の問題は個人が向き合うべきもので、教育がやるべきは正しい言葉と知識を教えることに尽きると思う。
  • 表記をいじることで問題解決になると思っているなら、それは本質から目をそらしているだけのように思える。
  • 常に米国の方針に合わせるのか わかりやすくていいね
  • 伝統ある言語が記号で崩されていくのを見ると、文化の根っこが切り崩されていくようで不安になる。
  • 自分の子どもが学校で変な記号を習ってきたら、家庭でどうやって説明すればいいのか困ると思う。
  • 何でも新しいものが正しいとされる風潮が怖い。古いものにも意味があり、価値があるはず。
  • 学校でジェラード出したのかと思った‥
  • 言語はただの道具ではなく、その国の考え方や価値観を映す鏡。勝手に変えてはいけない。
  • 学校の教科書にまでジェンダー記号が入っていたら、親としては戸惑うし不安を感じるのが自然だと思う。

japannewsnavi編集部Aの見解

イタリア政府が、学校においてジェンダーニュートラルな記号の使用を禁止したというニュースを見て、私はある意味で自然な流れだと感じました。最近は日本でも「LGBTQ」や「ジェンダー平等」といった言葉が日常的に使われるようになりましたが、それが一部の教育現場では過剰な形で導入されつつあることに、私自身少なからず危惧を抱いていたからです。

もちろん、差別や偏見をなくすことは大切なことですし、多様性を認め合うこと自体を否定するつもりはまったくありません。しかし、子どもたちに対する教育の現場で、性のあり方や表現の仕方にまで「記号」や「言語」から変えていくという動きには、どこか違和感を抱かざるを得ません。言葉というのは文化そのものであり、無理やりそれを変更することが、果たして本当に人々の理解や共生につながるのでしょうか。

イタリアのこの判断は、単に「保守的」であるからとか、「多様性に反する」というような短絡的な評価で片付けるべきではないと思います。むしろ、国民の間で「伝統的な価値観」と「現代的な主張」のバランスを取ろうとした末の、一つの慎重な判断だったのではないでしょうか。社会的価値観というものは、急激に変化すればいいというものではなく、世代や地域によって成熟する時間も異なります。

今回、イタリアが学校での記号使用を制限したのは、教育の中立性を守るためであり、政治的・思想的な主張が過度に子どもたちに押しつけられることを避けようとしたのだと私は受け取っています。つまり、「誰もが自由に生きるべきだ」とする理念と、「教育現場は公平中立であるべきだ」という基本方針の、ちょうど中間地点を探った結果ではないかと考えています。

近年、欧米では文章中の男性形・女性形に加えて、ジェンダーニュートラルな表現(たとえば「*(アステリスク)」や「@」や「ǝ」など)を用いる例が増えていました。例えば、イタリア語では「tutti(すべての男性)」と「tutte(すべての女性)」を使い分ける文法構造がありますが、そこを「tuttǝ」などとする表現が生まれていました。しかし、こうした表現はあくまで社会運動や一部団体から発信されたものであり、それを全国の学校教育にまで取り入れることは、本来の言語教育や文法の一貫性を大きく揺るがすことになりかねません。

言葉は生き物です。時代とともに少しずつ変化していくものであり、それは自然な流れとも言えます。しかし、子どもたちに教えるべき言語や表現は、まずは基礎をしっかりと習得させることが大前提です。そこに、あまりにもイデオロギー色の強い記号を紛れ込ませることは、教育というよりは思想の押し付けに近いと感じてしまいます。

私が懸念しているのは、こうした運動が「多様性の尊重」や「包摂的な社会」という名のもとに、実際には逆に不寛容さを助長しているのではないか、という点です。「この記号を使わなければ差別だ」といった論調が広がることで、表現の自由を脅かし、逆に異なる価値観を持つ人々を排除してしまうような社会になってしまわないか、不安を感じます。

日本でも、似たような風潮が徐々に広がりつつあります。官公庁の文書や大学の募集要項などにおいて、性別欄の表現が変わりつつあったり、一部の自治体ではジェンダーフリー教育が推進されていたりします。もちろん、配慮は必要ですが、行きすぎた改革が言葉そのものを壊してしまうのではないか、という危機感を持つ人も多いのではないでしょうか。

また、ジェンダーという問題は本来、もっと深く、個人の生き方や尊厳に関わるテーマです。それを「記号」によって解決しようという発想には、どこか安易さも感じます。言葉や記号を変えることで表面的に問題が解消されたように見えても、それが本質的な理解や寛容につながるかどうかは、まったく別の話です。

イタリアが今回行った決定は、こうした流れに対して一つの「慎重な判断」を示したものです。つまり、「子どもたちに教える言語の在り方」や「教育現場の中立性」に立ち返り、社会的価値観の変化にどう対応すべきかを真剣に考えた結果だったのでしょう。

私自身、こうしたニュースに触れるたびに、日本でも同じような議論が必要になってくると感じています。多様性を受け入れることと、伝統や文化を守ることは、必ずしも対立するものではありません。その両方を丁寧に考え、社会全体が納得できる形で議論を重ねていくことが、これからますます求められていくと思います。

そして教育の現場では、思想の押しつけや一方的な価値観の流布ではなく、まずは「言葉を正しく教える」こと、そして「多様な考えを学ぶ余裕を持たせる」ことが最も大切なのではないでしょうか。

執筆:編集部A

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