子どもが体育の授業で「公開処刑」 “できるまで座らせない”指導に母親が怒り 「全く理解出来ない」

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Hint-Pot編集部/クロスメディアチームによると…

子どもが体育の授業で「公開処刑」 “できるまで座らせない”指導に母親が怒り 「全く理解出来ない」

 学校の授業には、誰しも科目によって得意不得意があるものです。とりわけ、クラスメートみんなの前で行う体育や音楽の授業には、苦手意識を持つ人も多いのではないでしょうか。自閉症を持つ小学校1年生の息子が、体育の授業で1人だけ残って発表させられたことに、「公開処刑」と怒りをあらわにした母親の投稿がネット上で話題を呼んでいます。投稿者の女性に詳しい話を聞きました。

縄跳びが跳べない子だけを座らせず、できるまで立たせる指導に「公開処刑」と怒り

「息子が1年生の体育で公開処刑されてた事が判明。

大の苦手な縄跳びが跳べなくて、誰にも助けを求められずにずっと座れなかったらしい。一人だけ。

お願いだから公開処刑スタイルやめて欲しい。OT再開はするけど、基本縄跳びの日は体育休ませてようと思う。自尊心傷つけるってなぜわからない?」

 今月19日にSNS上に投稿された、小学校での体育の指導法を巡る苦情。投稿にあるOTとは、作業療法士(Occupational Therapist)と呼ばれる障がい者向けのリハビリテーション専門職の略で、投稿者の息子は定期的にカウンセリングを受けているそう。続く投稿では「そりゃあ体育嫌だって朝から泣くわな。出来たら座る、できなければ座れないっていうスタイルを取る事が全く理解出来ない。子供にとって害でしかないですよ。お陰様でトラウマになりました」と我が子が負った心の痛みについてつづっています。

 関東在住の30代女性で、医療機関で管理職として働きながら7歳の息子と1歳の娘を育てているという投稿者。息子は自閉スペクトラム症(ASD)および発達性協調運動障害(DCD)の診断があり、現在は特別支援学級・情緒級に在籍、日々本人の特性に応じた学びを受けているといいます。

[全文は引用元へ…]2025.06.25

要約

・小1の自閉スペクトラム症(ASD)と発達性協調運動障害(DCD)の男児が、体育の縄跳び授業で「できるまで座らせない」指導を受け、母親が「公開処刑」とSNSで批判。
・息子は縄跳びが大の苦手で、助けを求められず、1人だけ立ち続けていたことが後に判明。
・投稿には「体育嫌だって朝から泣く」「できなければ座れない指導が理解できない」と自尊心の傷つきを訴える言葉が記されていた。
・息子は特別支援学級に在籍しており、入学前から体の動かしづらさや特性について学校側に伝えていた。
・投稿者は学校や教育委員会と連携を続けていたが、交流級の体育での配慮が不十分だった。
・SNS投稿は1万件以上リポストされ、約9.7万件の「いいね」を集め、共感の声が多数寄せられた。
・一方で「甘やかし」「逃げグセがつく」といった批判的コメントもあった。
・投稿者は「甘やかし」という批判に反論し、「見えない障がいへの理解が広がる契機になれば」と述べた。
・この出来事を通じ、障がい児への配慮の必要性や、画一的な体育指導のあり方が社会的に問われている。

以下,Xより

【LINE NEWSさんの投稿】

引用元 https://hint-pot.jp/archives/265675
https://x.com/susie3asd/status/1935509983095046644

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みんなのコメント

japannewsnavi編集部Bの見解

体育の授業が生む「公開処刑」という感覚

私はこの件を知ったとき、まず「公開処刑」という表現に強い衝撃を受けました。体育の授業という本来、身体を使って健やかな成長を支える場が、子どもにとっては自尊心を傷つけられる時間になっていたのだと思うと、胸が苦しくなりました。

縄跳びが苦手な小1の男の子が、跳べるまで座らせてもらえず、1人だけ立ち続けていたという場面は、想像するだけでつらいものがあります。たとえ先生に悪意がなかったとしても、そのやり方が子どもに与える心理的影響は計り知れません。とくに、その子が発達特性を持っていることを学校側が事前に理解していたならなおさら、もっと柔軟な対応が必要だったはずです。

一人だけ違う扱いをされ、しかもそれが全員の前で行われれば、「できない自分」を突きつけられるようなものです。誰にでも得手不得手があるのが人間ですし、不得手な部分を「できるまでやらせる」という方法は、必ずしも成長を後押しするとは限りません。できなかったことで苦しんだ記憶が、体育そのものへの拒否感を生み、長期的な影響となって残ることもあります。

もちろん、「がんばってできるようになったときの達成感」は素晴らしいものです。しかし、その前段階で心を折ってしまっては本末転倒です。体育の授業が、すべての子どもにとって苦痛なものではなく、可能性を伸ばす場になることを、もっと真剣に考えるべきだと思います。

異常とも言われる「日本の体育文化」

ネット上では、日本の体育の授業や体育祭、そして部活動に対して「どう見ても異常」とする声もありました。私も学校教育を受けてきた一人として、その空気にはどこか心当たりがあります。全体主義的で、同調を求められ、できない子に対して厳しい視線が向けられることが、体育において特に顕著なのです。

「できるようにすればいいだけ」と言う人もいますが、それがどれだけの努力や負担を伴うのか、本人でなければわかりません。できないことを責めるより、なぜできないのかを共に探るほうが、はるかに建設的です。なのに、今も昔も「できない子」は悪目立ちしやすく、まるで見せしめのようにされてしまう指導法が、まだ一部の現場で続いている現状があります。

「できるまで座れない」という指導が、全体のやる気を引き出すためという意図だとしても、特性を持つ子どもや、極端に苦手意識を持つ子にまで一律に求めるのは無理があります。ましてやそれが理由で「学校へ行きたくない」と泣くようになるのであれば、教育の方法そのものを見直す必要があるのではないでしょうか。

学校という場は、ただ単に知識や技能を習得するだけの場所ではありません。人間としての基礎を学び、他者との関わりの中で成長する場です。だからこそ、誰かを晒し者にするような空気があるとすれば、それは早急に変えなければならないと私は思います。

親の役割と社会の目線

一方で、「子どもに逃げさせてはダメ」「一緒に困難を乗り越えさせるのが親の役目」という意見も多く見られました。これに対して私は、どちらが正しいかというより、子どもの状態や状況によって柔軟に考えることが必要だと感じています。

確かに、人生には「逃げずに向き合う」ことが求められる場面がいくつもあります。ただし、それは子どもがある程度の土台を持っているときにこそ意味を持つ話です。心が折れかけている状態で無理に続けさせることが、成長につながるとは限りません。とくに発達特性を持つ子どもは、感じ方や処理の仕方が他の子と異なるため、「普通と同じように頑張らせる」ことが負荷になるケースも多いのです。

親が子どもに「逃げ道を用意する」ことを甘やかしととらえるか、保護と見るかは意見が分かれるところでしょう。ただ、私は「一緒に困難に向き合う」とは、必ずしも「体育に無理矢理出させる」ことではないと思います。できないことを認め、それでもできる形を模索し続けること。ときには回避する判断も、成長の一部として尊重していいのではないでしょうか。

この騒動がここまで大きくなった背景には、教育現場だけでなく、社会全体の「型にはめる」意識が影響しているのではと感じました。子ども一人ひとりの個性を理解しようとする姿勢が広がっていけば、こうした問題も少しずつ減っていくのではないかと、私は期待しています。

執筆:編集部B

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