欧米の基準ではイスラム教を理解するのは無理
2011年に始まった「アラブの春」は本当に民主主義を求める戦いだったのか(Moises Saman/The New York Times)
2011年、著者は夫と娘と3人でエジプト・カイロに降り立った。時は「アラブの春」による政治的動乱の真っただ中。ノンフィクション・エッセイ『エジプトの空の下』を書いたイスラム思想研究者の飯山陽氏にエジプトでの“刺激的”すぎる日々について聞いた。
「お前は全身が恥部だ」
──30年に及ぶムバラク政権崩壊の直後、どんな日常でしたか?
第1に、死が非常に身近にありました。テロが多発し、爆弾の音で目が覚める。娘が通う幼稚園から「近くで銃撃戦が始まったので、迎えに来てください」と結構な頻度で電話がかかってきた。町中で弾丸が飛び交い、爆弾も車の下、路肩、学校・幼稚園そこここに。
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大混乱の原因であるイスラム過激派のムスリム同胞団は、敵であるエジプト当局の庇護(ひご)下にある外国企業、外国人学校、外国人居住区をも攻撃対象にしてきました。
──過激派指導者への取材場面、武力で政権打倒を叫ぶムルガーン師は開口一番、「お前は全身がアウラ(恥部)だ」と言い放った。
視線を落とし決して目を合わせるなと。イスラム教において、女性+異教徒である自分がダブルで二流市民であり、見下される存在であることは承知していたけど、面と向かって言われるとやはり衝撃でした。
伝統的社会に生きる女性たちにはそれが当たり前でも、私は「女は恥部」の価値観を批判的に捉えているので、心情として受け止められなかった。ふざけるなと思いつつ、インタビュー中も「カメラマンの背後に隠れ姿をさらすな」という指示に従いました。
──「人間はみな平等」は、決して世界共通ではないと。
『コーラン』に「服従しない女たちには諭し、それでも駄目なら臥所(ふしど)に置き去りにし、それでも効かないなら殴れ」という章句があります。それが女性への暴力、DVの正当化につながる。西洋近代的な価値観で生きる私たちにその女性観は異様であるように、彼らにとっては私たちの価値観が異様。
例えば、女性は覆いであるヒジャーブを着用することで暴力から守られる、という常套句。われわれは女性を守っているのだと。でもそれは、女性抑圧という西側からの非難に対し、イスラム教を擁護・正当化するための方便。現にエジプト人女性の99%はセクハラ被害の経験者です。ヒジャーブをしていても女性はセクハラ、レイプ、DVの被害に遭っている。
「アラブの春」は民主主義に対する戦い
──同じ言葉でも定義が違ってくる。
イスラム法における「公正」は、すべての人をその人にふさわしいやり方で扱うこと。劣った異教徒には劣った者にふさわしい扱いが正しい。男は男、女は女、奴隷は奴隷、それぞれにふさわしい権利と義務を神は与えられた、違いが生じることに何の問題もない、と。
飯山陽(いいやま・あかり)/1976年生まれ。上智大学文学部史学科卒。東京大学大学院人文社会系研究科博士課程単位取得退学。在学中、モロッコに1年留学。博士(文学)。著書に『イスラム教の論理』『イスラム2.0』『イスラム教再考』、共著に『イスラームの論理と倫理』など。(撮影:梅谷秀司)
そもそも「アラブの春」についても西側世界は、自分たちが考える民主化や自由化をイスラム教徒が求めているのだ、と勘違いした。彼らにとっての民主化、自由化とはイスラム教を正しく信仰するためのもの。信仰を阻害する独裁統治体制や、イスラム教の禁忌まで許容する民主主義やリベラリズムに対する戦いです。武装闘争を肯定するジハード主義はイスラム法の正統教義。アラブの春で、投獄されていたジハード主義者のほとんどが自由の身になった。女性の覆い着用もこの時期復活しました。
──民主主義や国民主権は反イスラム的、だったのですね。
ムルガーン師らからすると、そうですよね。主権は神にのみ存する。国民主権国家で成り立つこの世界の秩序は反イスラムなので、すべて破壊しなければいけない。
ただ、一般のイスラム教徒も同じかというと、違う。神が許す範囲で自分たちはやっていると解釈しているので、そこに国民主権が入ることに矛盾はない。そうふんわり解釈しないと現実問題として日常生活が成り立たない。自分の国で普通に生きていることが当たり前だし、それを根底から覆すことなんて考えないわけです。そうすると、これはこれで正しいんだと、ふんわり解釈するしかない。
──教義に対し合法か違法かの判断と、現実社会で生活を営む現世的な判断との微妙なバランス。でもそれは「いつどんなタイミングで崩壊するかわからない」と。
いきなりピョーンと橋を渡り過激に走っちゃう。今ネットで過激な説教をするイスラム主義者が増えていて、YouTubeで簡単に見ることができる。「自分は間違っていた」とコロッと変わる例が結構ある。家族を残してジハードはできないと踏みとどまる人もいるし、家族を捨てる人もいる。
イスラム教には超えてはならない一線ある
──現地で雇っていた運転手さんも、揺らぎそうなタイプでしたね。
かなり厳格なイスラム教徒でした。私の取材に同行しては過激な指導者の姿に心酔していた。異教徒である日本人の下で働くのは、教義的に違法ともされる。でも彼は自分が仕事をし家族を養っていることが誇りだったので、そこは一線を引いていた。私たちもそれを信用して彼に運転を任せました。
『エジプトの空の下』
よくいう「話せばわかる」に普遍性はないってことです。イスラム教の世界には、越えてはならない一線がある。日本でもイスラム教徒の人が増えていますけど、私たちは彼らがイスラム教徒であることをしっかり認識して付き合っていくべきです。私たちが思う普遍的な価値観というのは、案外普遍的ではないという点を心に留めて、一緒に仕事したり、隣人として付き合ったりしていったほうがいい。
──飯山さんは常々、日本におけるイスラム研究の重鎮たちと異なる意見を発信されています。一番の違いは何だと考えていますか?
事実に基づくか、イデオロギーに基づくかです。研究者として事実に基づいて研究し、発信することを大事にしてきた。イスラム教にはコーランやハディースといった、教義が厳然と記された本が何万冊もある。そこに研究者個人の理念に反する事実があっても、見なかったことにするべきではない。
加えて、私は異教徒の女であり、そのうえ肩書もないので、向こうもストレートに、偽善抜きの正直対応をしてくる。さんざん嫌な思い、怖い思いをしたけど、それも貴重な体験です。イスラム教徒の女性が日々受ける辱めもよくわかった。酷暑の中、頭や体を覆うのは面倒だし嫌ってる女性は多い。でもそれで女性は守られる、より美しい? 「じゃあ、やってみ」って話です。
中村 陽子 東洋経済 記者
引用元 https://toyokeizai.net/articles/-/478985?page=3
みんなのコメント
- 「エジプトの空の下」は名著。 これだけの実体験に裏打ちされた飯山さんの考察・学問は、自分は安全圏にいて薄っぺらなイデオロギーだけでアラブに肩入れする権威者とは比較にならない。 価値ある研究の歩みをいっとき止めて日本と国民のために立ったこの人を応援しないわけにいかない
- やはりイスラム教とは相容れない、そう思いました。 嫌うわけではなく、根本的に仏教、自然信仰の考え方がある日本とは違うから、転ばぬ先の杖が適当と思います。
- 愕然! 「私たち(日本人)が思う普遍的な価値観というのは、案外普遍的ではない」
- 飯山陽さんの言葉「事実に基づくか、イデオロギーに基づくかです。研究者として事実に基づいて研究し、発信することを大事にしてきた。」に他の研究者との違いが感じられます。
- いかにも頭が良さそうな人のインタビューですね。理路整然としてる。こうした経験談が、全く違うルールに生きてる我々にもたらされる意味は大きい。 しかし、一方の緑の人はエジプトで何やってたんでしょう?
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