【髙安カミユ(ミジンコまさ)さんの投稿】
【海月(くらげ)さんの投稿】
引用元 https://x.com/mosocurage/status/1889092709136338961
石平さんが参議院選挙に立候補するという話が出ている。彼は長年、日本の保守派の論客として活動し、中国の実態を鋭く指摘してきた。その姿勢には敬意を持っているし、彼がどれだけ日本を愛しているかも十分に伝わってくる。しかし、それでも「帰化人の立候補」という問題については、慎重に考えざるを得ない。
石平さん個人には何の問題もない。むしろ、彼ほど日本のために発言してきた人は珍しい。しかし、一度「帰化人の立候補」を認めると、同じ基準で他の帰化人も認めざるを得なくなる。ここに、大きな問題がある。
日本を愛していることを示すのは難しくない。「日本が好きです」と言うこと自体は誰にでもできる。しかし、問題はその言葉の真偽をどうやって判断するかだ。日本を愛していると言いながら、実際には外国勢力の影響を受ける可能性は排除できない。政治は影響力を持つ場だからこそ、慎重になる必要がある。
仮に、石平さんの立候補を認め、それが前例になったとする。すると、将来的にどのような人物でも「私は日本を愛しています」と言えば、立候補を認めなければならないことになる。この基準が甘くなれば、日本の政治にどのような影響が及ぶのか、慎重に考えなければならない。
例えば、他の国からの帰化人が、表向きは「日本のため」と言いながら、実際には元の国の利益を優先する可能性もある。政治家は国の方向性を決める立場にある以上、日本国民の利益を第一に考えなければならない。だが、帰化人の政治家が増えれば、そのバランスが崩れる可能性は否定できない。
これは決して「差別」ではない。日本という国の政治の在り方を守るために、帰化人の立候補を慎重に考えるのは当然のことだ。世界を見ても、帰化人に対する政治参加の条件を厳しくしている国は少なくない。例えば、アメリカの大統領は生まれながらのアメリカ国籍を持っていなければならないとされている。国の最高権力者が外国の影響を受けることを防ぐためだ。
同じように、日本の政治においても、帰化人の立候補について慎重になるべきだ。日本は長い歴史を持ち、独自の文化や価値観が根付いている。この国の未来を決める政治の場において、日本の価値観を共有する人が主導権を握るべきであり、外国の影響を受ける可能性がある人物の立候補には慎重であるべきだ。
もちろん、石平さんがそのような意図を持っているとは思わない。彼の発言を見れば、誰よりも日本を愛し、日本を守りたいという気持ちが伝わってくる。しかし、政治は個人の問題ではなく、制度の問題でもある。一度、帰化人の立候補を認めると、その基準が拡大し、結果として日本の政治が外国の影響を受けるリスクが高まることを考えなければならない。
特に、近年は日本の安全保障環境が厳しくなっている。中国や韓国との関係、さらにはアメリカとの外交問題など、日本が自国の主権をしっかり守るためには、政治の場が外国の影響を受けないようにする必要がある。帰化人の政治家が増えれば、国の方針が微妙に変化し、日本の独立性が損なわれる可能性もある。
また、日本の政治はすでにメディアや国際機関の影響を受けやすい状態にある。これ以上、外国の影響を受ける余地を広げることは、日本の将来にとってリスクが高い。国民の多くが「日本のため」と考えている政治家を選ぶべきだが、その基準をどうするかが重要だ。
例えば、日本に長く住み、日本文化に深く根付いた帰化人もいる。しかし、それを判断する基準は非常に曖昧であり、最終的には「言葉」だけで判断するしかない。これは非常に危険なことだ。
日本の政治は、日本国民のためにあるべきだ。そのためには、帰化人の立候補を慎重に検討し、特定の国や勢力の影響を受けることがないようにするべきだ。どれほど日本を愛していると言っても、それを完全に証明することは難しい。だからこそ、政治の場においては、より厳格な基準を設けることが求められる。
石平さんが日本を愛していることは、多くの人が理解している。しかし、それでも帰化人の立候補について慎重に考えるべきだというのが私の意見だ。日本の政治が今後も日本人によって決められるために、ルールを厳しくすることが必要ではないか。
政治の世界では、一度例外を作ると、それが前例となり、どんどん基準が緩くなっていく。最初は信頼できる人だからと認めても、次第に「日本が好きです」と言うだけで誰でも立候補できるようになれば、取り返しがつかなくなる。
だからこそ、日本の政治を守るために、帰化人の立候補については慎重な議論が必要だ。日本の未来を考えたとき、今こそ「日本の政治は日本人の手で決める」という原則を守るべきだろう。
執筆:編集部A