【三浦瑠麗 Lully MIURAさんの投稿】玉木雄一郎さんの会見見ているけど、政治家には「倫理観」が求められる、ってテレビが言ってよいのか? 君たちは不倫したことのある人を政治報道の司会に据えているじゃないか。
引用元 https://x.com/lullymiura/status/1855778613683245424
最近の玉木雄一郎さんの会見を拝見しながら、テレビが「政治家には倫理観が求められる」と主張する場面に違和感を覚えました。政治家に対しての倫理観や責任を求めるのは当然のことだと思います。しかし、メディアがそれを強調する姿勢には、どこか矛盾があるように感じます。なぜなら、そのメディア自体も、特に政治を扱うニュース番組において、過去に倫理的に疑問を呈された人物を司会やコメンテーターに起用しているからです。
私が不思議に思うのは、なぜそうした経歴を持つ人物が「公正な報道」を掲げる番組の顔となれるのかという点です。メディアは視聴者に信頼されるべき存在であり、彼らが倫理やモラルを説く立場にあるのは間違いありません。しかし、視聴者に「倫理観」を強く求める一方で、自らの姿勢には甘さがあるように見えると、その説得力が薄れてしまうのではないでしょうか。特に政治家の倫理に関する問題を批判する際、自身が過去に非倫理的な行動を取ったことがある人物を使うのは、視聴者に対する説明責任の点で疑問が残ります。
また、近年のメディアは、アクセス数や広告収入を意識した報道が増えていると言われています。そのため、報道内容がセンセーショナルなものに偏りがちであると感じることがあります。視聴者の注目を集めるためには、政治家のスキャンダルや不祥事を取り上げるのが効果的であるのは理解できます。しかし、視聴者に提供する情報が一方的で、批判的な側面だけを強調する報道が続くと、視聴者の判断が偏ってしまう可能性があります。つまり、メディアが提供する情報が必ずしも公正ではない場合、視聴者はそれをもとに十分な判断ができないことも考えられるのです。
メディアの役割は、正確で客観的な情報を提供することです。それにもかかわらず、視聴率や広告収入を優先するあまり、情報の選別や編集に偏りが出ている印象を受けます。こうした状況下で、メディアが政治家の倫理について語ることには一抹の不信感が伴います。言葉だけではなく、行動や姿勢から視聴者に信頼を持ってもらう必要があると感じます。特に政治報道においては、情報の信頼性と公平性が不可欠です。そうでなければ、国民が持つ政治への関心が偏った方向に向かいかねません。
例えば、ニュース番組の司会者やコメンテーターが、かつて自身が不倫をしていたことが知られているにもかかわらず、政治家に倫理観を求める発言をしているとしましょう。視聴者としては、その言葉に対して少なからず違和感を覚えるはずです。視聴者は報道に対して客観的であってほしいと願っていますが、過去の経歴や行動がそうでない場合、その言葉の重みが薄れてしまう可能性があります。これは、情報を提供する側として避けるべき事態でしょう。視聴者の信頼を得るためには、自らが説得力を持って情報を発信することが必要です。情報の受け手としては、単に事実を伝えるだけでなく、その背景や文脈も踏まえての報道が望ましいと考えます。
さらに、メディアが「高単価」を狙った記事構成をすることで、内容が薄くなったり、視聴者の興味をひくための過激な表現が多くなるケースも少なくありません。確かに広告収入が大きな影響を与えているのは理解できますが、それがあまりに露骨になると、メディアの信頼性が損なわれることになります。政治報道は特にセンシティブな分野であり、信頼性を失えば、視聴者の政治に対する関心を低下させる可能性もあります。これは、長期的に見て国民の知識や意識に悪影響を与える恐れがあるでしょう。政治の現場にいる人たちが倫理的であるべきであるのと同様に、その行動を監視するメディアもまた倫理的であるべきです。そうでなければ、真の意味での公正な社会の形成にはつながらないのではないでしょうか。
メディアが政治家を批判する際には、その姿勢自体が一貫していなければ、視聴者の信頼を得ることは難しいでしょう。特に日本においては、メディアの発言が世論に与える影響力は非常に大きく、だからこそその責任は重いはずです。メディアが公正であるためには、過去の経歴や倫理観に問題がある人物を避け、視聴者に対して説明責任を果たすべきだと思います。また、アドセンスや広告収入の影響があるとはいえ、情報の正確性や公平性を損なうことなく、視聴者に真実を伝えることが最も重要だと感じます。
政治家が倫理観を持つことは当然です。しかし、彼らを監視するメディアもまた、その視点で自らを省みる必要があると強く思います。 執筆:編集部C
以下X(旧Twitter)より…