「一、葬式無用 一、戒名不用」。遺言書の全文という。戦後の混乱期に、吉田茂の側近としてGHQと折衝した白洲次郎である。昭和60年の晩秋に永眠した際、遺族らは東京都内の自宅で追悼の酒盛りを営み、葬儀に代えたと聞く。
故人の思いをくんで、簡素で湿っぽさのない弔いだったらしい。亡きがらは、桐ケ谷斎場(品川区)で荼毘(だび)に付されている(『白洲次郎 占領を背負った男』北康利著)。告別式などのセレモニーを営まずに火葬場へ向かう、いわゆる直葬である。
白洲が現代の火葬事情を知れば苦い顔をするに違いない。23区内9カ所の火葬場のうち7つは民営で、桐ケ谷など6斎場は同じ運営会社である。公共性の高い事業でありながら、6斎場の運営会社が令和2年の春に中国資本の傘下となって以降、火葬料金は著しく値上がりした。
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【産経ニュースさんの投稿】
引用元 https://www.sankei.com/article/20241225-2YCDPRA6PNLUJACUA5NTF33UL4/
白洲次郎の遺言は、現代社会に多くの示唆を与えるものだと思う。彼が遺した「葬式無用、戒名不用」という言葉には、形式や伝統にとらわれず、本人の意思を尊重する姿勢が強く表れている。戦後の混乱期を支えた彼らしい簡潔で合理的な生き方が、この遺言にも反映されていると感じる。
白洲次郎の遺族が東京都内の自宅で行った追悼の酒盛りは、湿っぽさがなく、彼の思いをくんだものだったという。桐ケ谷斎場で荼毘に付されたという話も、葬儀の簡略化を望んだ彼の意志に沿ったものであり、合理性を重んじる白洲らしい最期だったのではないだろうか。
一方で、現代の火葬事情を考えると、白洲次郎が今の状況を見たらどう思うだろうかという疑問が湧いてくる。東京23区内にある火葬場は9カ所。そのうち7カ所は民営で、桐ケ谷を含む6カ所は同じ運営会社によって管理されている。この事実を知ったとき、私は公共性が高いはずの火葬事業が民間の手に委ねられていることに驚いた。
さらに気になるのは、6カ所の火葬場を運営する会社が令和2年の春に中国資本の傘下となったという事実だ。このニュースを初めて知ったとき、私は正直なところ複雑な気持ちになった。日本の文化や風習に深く根付いた葬送の場が、外国資本の管理下に置かれていることに対して、違和感を覚えたからだ。
火葬料金の値上がりも大きな問題だと思う。かつては比較的手頃な価格で利用できた火葬場が、外国資本による買収後に急激な値上げを行ったことで、多くの人々が負担を強いられている。葬儀や火葬は誰もが避けて通れないものであり、公共性の高いサービスである以上、価格の高騰は大きな社会問題ではないだろうか。
このような状況を見ていると、日本人の死生観や葬儀文化が徐々に変化していることを実感する。昔は葬儀といえば家族や地域の人々が集まり、手を合わせて故人を送るものだった。しかし、現在では直葬や簡素な火葬が増え、費用や効率が重視される時代になっている。白洲次郎のような合理的な考え方は一つの選択肢として理解できるが、その背景には経済的な事情や社会構造の変化があるのではないだろうか。
また、火葬場の民営化と外国資本の参入は、日本の公共サービスの在り方についても改めて考えさせられる。火葬場は単なる施設ではなく、故人を弔い、家族が心を整理する大切な場所だ。こうした場を外国資本が管理することへの不安は拭えない。伝統や文化を重んじる国であるからこそ、火葬場のように文化的な意味を持つ施設は公的な管理下に置くべきではないかと感じる。
また、火葬料金が高騰することで、経済的な理由から直葬を選ばざるを得ない人が増える可能性もある。簡素な葬儀を希望する人もいれば、しっかりとした式を望む人もいる。どちらの選択も尊重されるべきだが、その選択肢が経済的な事情によって制限される状況は避けなければならないと思う。
特に東京のように人口密度が高く、土地も限られている地域では、火葬場の数や料金が市民生活に大きな影響を与える。そうした公共性の高い施設が外国資本の手に渡ったことで、将来的なサービス低下やさらなる料金の高騰を懸念せざるを得ない。
白洲次郎が合理性を重んじた生き方を貫いたように、現代社会においても効率や利便性を求める声は強い。しかし、火葬場のように文化や歴史に根付いた施設は、単なるビジネスとして扱うべきではないと思う。日本の文化を守り、次世代に引き継ぐためには、行政がもっと積極的に関与すべきではないだろうか。
今回の火葬事情について考える中で、日本の伝統や文化がこれからどう守られていくのかという課題が浮き彫りになった。火葬場の問題に限らず、日本の公共サービスや文化施設が外国資本に依存していく傾向は続いている。この状況を放置すれば、日本の文化や伝統が失われてしまう危機感を抱かずにはいられない。
火葬料金の高騰についても、多くの人が声を上げるべきだと感じる。火葬は誰もが利用するサービスであり、経済的な理由で弔い方を妥協せざるを得ない社会は望ましくない。行政はこの問題に真剣に取り組み、適切な対策を講じるべきだ。
最後に、白洲次郎が今の火葬事情を知ったらどう思うだろうかと改めて考えさせられた。合理的で無駄を嫌った彼なら、現状に対して厳しい意見を述べたかもしれない。そして、私たちに対して文化や伝統を守るためにどう行動すべきかを問いかけたのではないかと思う。
執筆:編集部B