【くつざわさんの投稿】
引用元 https://x.com/kutsuzawa55/status/1870338490212511975
夫婦別姓については以前から議論が続いているが、今回の立憲民主党・篠田議員の発言を受けて改めて考える機会になった。この問題は単なる「選択肢の拡大」ではなく、家族制度や社会の根幹に関わる重要な課題だと思う。
篠田議員は「同姓か別姓かを選択できる」と発言しているが、実際には選択肢という言葉で覆い隠された強制的な側面があることを見逃してはいけない。特に問題なのは、夫婦別姓が親子別姓につながるという点だ。夫婦が別姓を選択した場合、必然的に子供はどちらか片方の姓を選ばなければならず、親子で名字が異なるケースが生じる。この時点で、家族の一体感が損なわれるのではないかと強く感じた。
私自身、家族は同じ名字を持つことで一体感や結びつきが生まれるものだと思っている。例えば、学校行事や役所での手続きなどで親と子供が同じ名字であれば自然と家族だと認識されるが、名字が違うと不自然に思われたり、説明を求められたりする場面が増えるだろう。このような状況は、子供にとっても心理的な負担になるのではないかと危惧している。
また、篠田議員の発言では「選択肢が広がることは良いことだ」といった論調が強調されていたが、実際には選択肢が広がることで生じる新たな課題についてはほとんど触れられていなかったように思う。法務省の指摘にもあるように、夫婦別姓を選択した場合は旧姓を法律上の姓として使用できないという制約があるため、完全な自由とは言えない。むしろ、選択を強いられる状況が生まれ、家族内の分断を助長する可能性すらある。
さらに、夫婦別姓制度は戸籍制度の形骸化につながる恐れもある。日本の戸籍制度は家族単位で管理されており、婚姻によって同じ姓を名乗ることで家族としての一体性が維持されてきた。しかし、別姓が認められることで戸籍の管理が複雑になり、将来的には戸籍制度そのものの廃止につながるのではないかという懸念が拭えない。このような事態になれば、日本の伝統的な家族観や社会秩序が崩れてしまうのではないかと思う。
また、夫婦別姓が導入されると、ホテルや旅館での宿泊時に「結婚証明書」の提示を求められる可能性も出てくると指摘されている。現在は同じ名字であることで夫婦であることが暗黙のうちに認められているが、名字が異なることで疑念を持たれるケースが増えるだろう。こうした事務的な手続きの増加は社会の効率性を低下させるだけでなく、夫婦に対する信頼関係にも悪影響を及ぼすと考えられる。
加えて、戸籍を見られたくない人々や、過去の経歴を隠したい政治家にとって都合が良い制度ではないかという疑念も浮かぶ。別姓を認めることで、身分や経歴を隠す手段として悪用される危険性も否定できない。このような問題が発生すれば、社会の透明性や信頼性が損なわれることにもつながるだろう。
実際、夫婦別姓制度が認められている国々では、離婚率が高くなる傾向が指摘されている。名字が異なることで心理的な距離感が生まれ、夫婦関係が希薄になる可能性が高いからだと思う。日本でも同様の現象が起きることは十分考えられる。
それに対して、現在の制度では入籍しなければ別姓のままでいられる選択肢も用意されている。事実婚という形を選べば、法律上は同姓でなくても生活は可能だ。そうした選択肢がすでに存在している以上、あえて夫婦別姓制度を導入する必要性は薄いように思う。
一方で、名字を変えたくないという意見や、キャリア上の不便さを訴える声も理解できる。しかし、そのために社会全体の秩序や制度を大きく変える必要があるのかは疑問だ。例えば旧姓の使用を柔軟に認める制度を充実させることで、夫婦別姓に頼らずとも問題を解決できるのではないだろうか。
私自身は家族の絆や一体感を大切にしたいと考えるため、夫婦別姓には反対の立場だ。この制度がもたらす負の側面を考えると、家庭や社会に与える影響は決して軽視できないと思う。
今回の篠田議員の発言は、選択肢の拡大という耳障りの良い言葉で多くの人を誤解させる可能性があると感じた。だが、問題の本質は制度によって引き起こされる分断や混乱であり、そこを見落としてはいけない。
今後もこの問題については慎重に議論を進める必要があると思う。多様性を認めることと、社会の秩序を守ることは両立できるはずであり、そのための最適解を模索していくべきだと強く感じた。
執筆:編集部B